後藤さんに初めて会ったのは、たしか秋の終わりだった。
街路樹の銀杏がほとんど散り果てて、歩道に黄金色の絨毯を作っていたあの日の午後、私は煤染みの喫茶店の隅のテーブルで原稿に行き詰まっていた。そこへ、誰かが向かいの椅子を引く音がした。
「相席、よろしいですか」
振り返ると、後藤さんが立っていた。
後藤さんは、どこにでもいるような人だった。しかしよく見ると、どこにもいないような人でもあった。年齢は私より少し上か、あるいは同じくらいか。グレーのジャケットに白いシャツ、特筆すべきところのない装いながら、その佇まいだけは妙に静かで、喫茶店の喧騒がその人の周囲だけ一段薄くなるような気がした。
コーヒーを一口飲んで、後藤さんは言った。
「何を書いているんですか」
「うまく書けないものを、書こうとしています」
「そうですか」と後藤さんは笑った。押しつけがましくない、ほんのわずかの笑みだった。「それはたいへんだ」
それだけで、会話は終わった。
後藤さんはその後、自分の文庫本を開き、私は原稿に戻った。不思議なことに、あれほど詰まっていた言葉が、するすると零れるように出てきた。後藤さんの存在が、何か余分な緊張を吸い取ってくれたのかもしれない。
帰り際、後藤さんは会計を済ませながら、こちらを向いて軽く頷いた。
「また」
そう言ったのか、言わなかったのか、今となってはよくわからない。ただ、その一言分の間があったことだけは覚えている。
それからも後藤さんとは、何度か同じ場所で顔を合わせた。長い話をしたことはほとんどない。それでも私は、後藤さんのことを、自分の人生においてたしかに重要な人物だと思っている。
うまく説明できないのだが、後藤さんがそこにいるというだけで、世界がすこし正確になる感じがするのだ。余白が正しく余白として機能し、沈黙が沈黙として息をする。そういう人が、世の中にはたまにいる。
後藤さんは、そういう人だった。

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